村上春樹氏の新作、『騎士団長殺し』。タイトルが発表されると、ある界隈の人間は同じ事を思った。

「『騎士団長殺し』って、モーツァルトのあのオペラか?」と。

 

この記事では、なぜ村上氏がオペラ「ドン・ジョバンニ」を全面に押し出した作品を書いたのかを、オペラ専門家の観点から見ていきたい。

※ネタバレ等は可能な限り伏せてます。

 

神童として知られ、数多くの名曲で知られたモーツァルト、彼は35歳の若さで亡くなっており、この早死に加減もまた彼を有名たらしめている理由だろう。

 

ヴォルフガンフ・アマデウス・モーツァルト。彼のクラシックでの名曲となると、「レクイエム」やいくつかの有名オペラが挙げられる。その中には、クラシックに馴染みがない方でも名前だけは耳にしたことがあるような、「フィガロの結婚」や「魔笛」などがある。

そして、この『騎士団長殺し』を読む上で書かせない「ドン・ジョバンニ」

 

歌劇「ドン・ジョバンニ」はモーツァルトのオペラの中でも上演回数の多い作品だ。物語の内容としては、好色の貴族ドン・ジョバンニが従者のレポレッロと共に、様々な女を口説こうとするが、物語の冒頭で殺してしまった”騎士団長”に、その行き過ぎた女遊びへの罰を受け、地獄へと引きずり込まれる。

といったものだ。

 

もとは、スペインの教会等に伝わる「ドン・ファン伝説」という説話を元にして作られたオペラであり、女遊びをするものは罰を受けるぞ、という戒めが含まれている。実際モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」も、ドン・ジョバンニが地獄へ落ちると、出演者が皆で「悪事を働くものの末路はこんなものだ」と歌い幕が降りる。

 

さて、このように書くと騎士団長はあまり重要な役ではないように思う方もいるかもしれない。実際、ドン・ジョバンニがほとんど舞台にいるのに対し、騎士団長は最初と最後のシーンにしか現れない。だが、彼の影響力は凄まじい。

 

ドン・ジョバンニに夜ばいにあった娘ドンナ・アンナを救おうする父でもある騎士団長。年老いた彼は、若く力強いドン・ジョバンニに自らから決闘を申し込む。

決闘に敗れ、血の海に沈む騎士団長。彼は劇中を通して姿こそ最初と最後以外現れないが、復讐を誓ったドンナ・アンナの心に常にひそみ、彼女の行動の原動力になっているのが歌詞から読み取れる。

そして、物語の最後。彼は動く石像となって現れる。

 

人知を超えた存在となった彼は、ドン・ジョバンニの元へ再び姿を表し、彼に改心をせまる。今までの悪事を懺悔するか、地獄へ落ちるか。ドン・ジョバンニはもちろん、改心などするわけもなく、その様子を見た騎士団長はドン・ジョバンニを地獄へと引きずり込む。

 

オペラ「ドン・ジョバンニ」の劇中、彼だけが唯一、人を超えた存在、理解出来ないものへとなって現れる。つまりは”イデア”として。

 

哲学者プラトンによれば、イデアは「見える形ではなく、心の目のようなものによって洞察される、「物事の真の姿」」と語っている。

『騎士団長殺し』の主人公の言葉を借りれば「イデアというのは、要するに観念のことなんだ。」

そして、『騎士団長殺し』の作中において、イデアは騎士団長の姿を借りて現れる。

 

『騎士団長殺し』

このタイトルを冠する作品は現在2つあり、1つは村上春樹氏の新作、そして、作中に出てくる雨田という日本画家が書いた”絵”である。

この絵は、オペラ「ドン・ジョバンニ」の劇中で、ドン・ジョバンニが騎士団長を刺し殺してしまったシーンを日本画の技法を使い書いたものとされている。

なぜ、この日本画家がこの絵を書いたかは、作中において言及されているのでここでは割愛する。

 

さて、村上氏は『騎士団長殺し』を創造するにあたり、なぜオペラ「ドン・ジョバンニ」を用いたのだろうか。オペラならば有名作だけでも数十作品はあるし、ドン・ジョバンニは女性軽視ともとれる内容も、わずかだが、あるような作品だ。

村上氏がオペラ「ドン・ジョバンニ」を選んだ理由は、この”騎士団長”にあるのだろう。

 

オペラ「ドン・ジョバンニ」では、騎士団長は人間を超えた存在として、懺悔と罰を示す立場にいる。劇中での騎士団長は、しっかりと台本を読み解くと、ただ単にドン・ジョバンニという悪人に罰を与える存在でなく、一種の中立性をもって、ドン・ジョバンニに問いかける。「改心をする気はあるか」と

 

娘の貞操を奪おうとし、自身を刺し殺した人間に対し、このようにいえる”人間”などいるのだろうか。騎士団長は死を迎えたことにより、彼自身も人を超えた存在=イデアとなったのだろうと思う。

 

一度、モーツァルトに話を戻すと、オペラ研究者によっては、「ドン・ジョバンニ」というオペラはモーツァルトの父が死が関わっているという。

モーツァルトとその父は仲が悪く、父はモーツァルトの自由奔放過ぎた生活を快く思っていたなかった。モーツァルト自身も父のそのような厳格さを良く思っていなかったが、父の死はモーツァルトの心に後悔をもたらしたことだろう。

 

私達は、日常から大なり小なりの罪の意識や後悔の気持ち、贖罪や懺悔の機会を考えている。

そういった意味では、私達のごく身近に、それが例え見えなくとも、観念=イデアとして、罪から派生する様々なものが存在しているのではないだろうか。

 

詳しくはここでは述べないが、作中の日本画家が「騎士団長殺し」を書いた理由の1つに、自身の若い頃の罪の意識が内在していると示唆出来る箇所がある。

それは大きな後悔を伴う罪だった。だが、私達も大小の違いはあれど、日常茶飯事のように罪の意識を感じることはある。

それへの後悔や救いなりを、イデア=騎士団長に密かに求めているのではないだろうか。そして、因果応報のように善行をしたもの、悪行をしたものにはふさわしい未来を予定調和のように導く存在、言ってしまえば一種の神だったり、この世界だったりが、騎士団長の正体ではないかと思う。

 

だからこそ、『騎士団長殺し』の主人公はこう言うのだろう。

「騎士団長は本当にいたんだよ」